2008年2月10日日曜日

坪井代表引退


サッカー 坪井慶介が日本代表引退を表明 クラブに専念2008年2月9日(土) 16時16分 毎日新聞


サッカーの06年ワールドカップ(W杯)ドイツ大会に出場したDF坪井慶介(浦和)が日本代表引退を表明した。今後はクラブでのプレーに専念する。代表出場は40試合。28歳と衰えが目立つ年齢ではないが、10年のW杯南アフリカ大会を目指すメンバーに選ばれながら、出場機会に恵まれない境遇に悩んできた姿が浮かぶ。 坪井は福岡大を経て02年に浦和に入団。俊足を生かしたカバーリングを武器に1年目でレギュラーとなり、Jリーグ新人王を獲得した。 代表デビューは03年6月のパラグアイ戦。代表監督がジーコ、オシム、岡田と代わる中でも招集され続けた。だが、07年6月のモンテネグロ戦を最後に出番を失い、今月6日のW杯アジア3次予選初戦のタイ戦はベンチ入りからも外れた。センターバック争いで中沢佑二(横浜マ)、阿部勇樹(浦和)、水本裕貴(ガ大阪)の後塵を拝した格好だ。 1月末に岡田監督に代表引退の考えを伝え、タイ戦後にも話し合った。坪井は8日、さいたま市内で練習後、「出られない悔しさがあった。選ばれているからには代表チームのためにやらなくてはと、葛藤(かっとう)、ストレスがあった。出られないのは力がないから」と話した。 浦和の中村修三ゼネラルマネジャーは1月末に坪井と話し合った。だが、「日本を代表する選手が長い時間考えたこと」と翻意は促さなかったという。浦和は昨季、アジア・チャンピオンズリーグを初制覇した。「クラブとして世界に出たことも大きかったかもしれない」と、クラブでのプレーを選択した気持ちを代弁する。 元フランス代表のMFジダンなど、海外では現役は続けながらも代表は退く例はある。国内では、W杯ドイツ大会後に中沢が代表引退の意向を示しながら後に撤回した例があるものの、珍しいケースだ。坪井は「言ったからには戻ることはない」と、代表引退の重みをかみしめてい

2008年1月22日火曜日

埼玉スタジアム2002



住所
〒336-0972埼玉県さいたま市緑区中野田500
電話番号
048-812-2002




●アクセス
・埼玉高速鉄道「浦和美園」駅より徒歩20分
・埼玉高速鉄道「浦和美園」駅より国際興業バス臨時シャトルバスで8分(浦和・大宮ホーム時ともに)
・JR「浦和」駅西口より国際興業バス臨時シャトルバス45分(浦和・大宮ホーム時ともに)
・JR「東浦和」駅より国際興業バス臨時シャトルバス20分(浦和ホーム時のみ)
・東武伊勢崎線「北越谷」駅西口より東武バス・朝日自動車臨時シャトルバス20分(浦和・大宮ホーム時ともに)

       


2008年1月20日日曜日

高原入団会見


埼玉スタジアム2002ボールルームでの記者会見終了後、高原直泰は、ピッチでレッズの新ユニホームを着て写真撮影を行った。


背番号は7番に決定。


小野の移籍も報じられているが、高原とのコンビも是非見てみたい。

2008年1月16日水曜日

長谷部、ドイツは出発


長谷部、ドイツへ出発=ウォルフスブルク移籍で-サッカー時事通信 - 2008/1/16 11:32
 サッカーJリーグ1部(J1)の浦和からドイツ1部リーグ(ブンデスリーガ)のウォルフスブルクへ移籍するMF長谷部誠が16日、正式契約のため、ドイツへ向けて出発した。 成田空港で取材に応じた長谷部は「できるだけの準備はしたし、早くなじめるようにしたい。いいものを得られると思うし、成長していきたい」と決意表明。鹿児島県指宿市で行われている日本代表候補合宿には参加できなかったが、「活躍すればまた呼んでもらえると思う。まずは向こうで頑張りたい」と代表への思いも口にした。 24歳の誕生日となる18日に正式契約を結ぶ可能性もあり、「その日に契約できたらいい」と笑顔で話した。


ドイツへ行っても活躍してくれるでしょう。長谷部必ず、通用します。

長谷部 誠
1984年01月18日 静岡県藤枝市生まれ
177 cm/65 kg
サッカー歴:ランカーFC-藤枝市立青島東サッカースポーツ少年団-藤枝市立青島中学校-静岡県立藤枝東高校-レッドダイヤモンズ(2002)

2008年1月14日月曜日

クラブの歴史




浦和レッドダイヤモンズ



法人名: 株式会社三菱自動車フットボールクラブ
クラブカラー 赤
創設年 1950年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン ディビジョン1
ホームタウン 埼玉県さいたま市
ホームスタジアム 埼玉スタジアム2002日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。呼称は「浦和レッズ」である。




Jリーグ開幕時から熱烈なサポーターの支持を受けるチームで、後述するようにJリーグではトップクラスの観客動員・営業収入を誇る。かつてはチームの人気に成績が伴わず、1999年にはJ2降格という屈辱を味わったこともあるが、21世紀に入ってからは潤沢な資金を生かして戦力や環境の整備を図り、数々のタイトルを手にするようになった。




浦和は元来サッカーの街であり(埼玉県師範学校が1回、県立浦和高校が3回、市立浦和高校が4回、浦和西高校が1回、浦和南高校が3回と浦和勢だけで12回もの全国制覇る)観客動員記録を更新し続けている。




2003年以降常にタイトル争いをしており。2007年は念願のアジアチャンピオンにも輝いている。